toraの日記

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退職理由を批判的に捉えてみる

フェイスブックで以下の記事が流れてきて、自分なりにコメントがしたくて今回の記事を書くことにした。

u1style.hatenablog.com

筆者が記事で書いているアクセンチュアの退職理由もなるほどと楽しく読ませて頂いた。彼のブログにアップされている記事を全て読んだわけではないから確信を持って言うことはできないけど、少なくとも対象記事で書かれている内容では退職するという結論は妥当ではないように思える。

彼の目次はかなり読みやすくてそれぞれが結論に対する前提になっている。目次には6項目あり、後半の2つは本記事の主張とあまり関係がないので割愛する。そうすると以下の4項目になり、4つめが結論の役割をはたしている。

1 アクセンチュアは最も自由を追求できる環境

2 個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活

3 経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会

4 A面とB面

 自分のコメントを1つ1つ示して行こうと思う。

 

1.第一の項目について

どうにもこの前提が正しいとは思えない。 筆者がこの点をサポートするのに使っているのは社内活動における自由さに見える。彼が例にあげているのは以下。

・無駄な会議がない→あったら自分で潰すことができる

・できの悪い上司もいない→いたら、自分でプロジェクトチームから外すことができる

・できない部下もいない→いたら、同様外すことができる

・いやな仕事もない→あったら、最悪そのプロジェクトからリリースしてもらえばいいこと

・成果さえ出せば、給料もあがる

・合理的で成果主義なため朝9時に席に座っていろという、無意味な決まりにも縛られなくてすむ

(従って平日でもサーフィンを好きなだけできる。ただし、成果さえ出していれば。)

・やりたい仕事が必ずできる(アクセチュアは全産業、全バリューチェーンの課題解決を対象としており、かつニーズと希望のマッチング(面談)が必ずあるので、基本的にできない仕事はない、はず)

できの悪い上司、部下、仕事が自分で変えられるというのは確かに自由であると思う。でもそれは社内での話だよね。また、成果を出さなければいけないというリミットがある時点で完全な自由ではないことが分かる。本当の自由であるなら成果すら出さなくていいはず。やりたい仕事ができるというのはいいことだが、やりたい仕事をやらなくてはいけないという点にもひっかかった。仕事をやらなければいけないとされる時点で完全な自由ではない。つまり、彼の言う自由は少なくとも以下のリミットがある。

1.成果を出さなくてはいけない。

2.仕事をやらなくてはいけない。

そして筆者自身がこう振り返っている。

当たり前のように思っていたこれらの環境というのは、僕が最も欲していた、何にも縛られることのない「自由」そのものでした。無駄で無意味な慣習などに縛られることがない、極めて合理的なシステムです。

"何にも縛られることのない"や"無駄で無意味な慣習などに縛られることがない"というのは例と矛盾しているように見える。なぜなら、彼は少なからず上記の2つのリミットに縛られていたから。成果を出すのも仕事をするのも、どちらも"何か"であり"無駄で無意味な慣習"なんじゃないかな。

後者に関しては仕事をする上で無駄や無意味ではない慣習だって言うこともできるかもしれない。でも仕事をしなくてはいけないという時点で自由から離れているから、自由の追求という点で無駄で無意味だと思ったよ。

 

2.マズローのヒエラルキーニーズについて

筆者は自分の主張を支える為にマズローのヒエラルキーニーズを持ちだしている。まず小さいな点から。彼はマズローの5段階欲求と書いているけど、実際には6段階目に自己超越欲求というのがある。

マズローのヒエラルキーニーズを利用しての主張だとマズローに対する批判がそのまま彼の主張への批判となる。例えば、ヒエラルキーニーズはマズローが勝手に考えたデタラメだとか、サンプル数が少ないだとか、そういったものかな。

また、マズロー本人がニーズの段階はある程度満たすだけで次の段階へ行けると言っていたことに気をつけてほしい。だから下位から100%-100%-60%のような満たし方でなくて、80%-70%-60%という満たし方ができるらしい。(専門に勉強してたわけじゃないから詳しくはシランけど・・)

それに、下位のニーズを満たしている状態で上位へ進まなくちゃいけない。だから、

ひととおり自分の(下位層の)欲求は充たせる自由を手にしました。問題は、その先どこに向かうかです。

と筆者が書いているがこれを自己超越欲求の現れだとすれば、退職して(=今までニーズを満たしていたものをやめて)他の何かに取り組むというのはヒエラルキーニーズの考え方と違う。退職することでニーズの一部が満たされなくなればの話だけど・・。

 

3.アナロジーによる主張について

筆者は第二と第三項目でアナロジーによる主張をしていると思われる。自分はアナロジーによる主張が基本的に嫌いであるとまず書かせてもらいたい。 理由はアナロジーを使った主張はほぼ全て不完全だから。アナロジー自体はジョン・スチュアート・ミルなんかは特殊な帰納法として捉えていて、帰納法の初期段階による主張だとされている。でもそれって、帰納法より信頼出来ないということだよね。帰納法ですらブラック・スワンだのなんだのと言われて否定されているけど、それよりも信頼できない主張方法ってこと。

今回の場合以下の2点がアナロジーになっている。

個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活

経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会

前者は最も自由な社員が不自然な生活をしているということでサポートされているけど、後者へのアナロジーは何かおかしく思える。というのも経済自体は自由追求をしないから。(するのだとすれば、)自由追求をするのは政府や民間企業が個人の為にするんじゃないのかな?個人ー生活の関係を社会へ正しくアナロジーを引くなら、経済ー社会じゃなくて組織ー社会とかにならないかい?

追加でコメントするとすれば、経済や社会に関する点は資本主義への批判だね。有名どころではマルクス主義や共産主義の主張だったりする。例えばマルクスでは資本主義化にいる労働者はいくつかの種類の疎外を受けているという主張をしていた。なぜこういった批判があるのに今でも資本主義なのかといったことにもいろんな人達が葛藤しながら意思決定を行ってきたと思う。ちなみに哲学科ではそういった主張のやりとりをトレーニングしている。

 

4.B面について

何度でも言わせてもらうけど、筆者が今回の記事に書いたことが全てではないと思う。さまざまな悩みや葛藤があった上でアクセンチュアを退職する決断をされたのだと想像している。これからはローカルで活動をされるということで、自分からも応援したい。

自分についてだけど、10月から入社する会社ではどういった生活が送ることになるかまだはっきりと分からない。仕事についていけるかも分からない。自分は今までと同じで先なんて全く見えずに最後の学生生活を送っている。