toraの日記

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成長とはなにか 既存の議論が抱える問題点

就活生やら社会人が"成長とはなにか"という疑問に答えようとしていることがある。だが、彼らのアプローチはほぼ全て間違いだ。100人で考えようが、1000人で考えようが、間違っているものは間違いなのだ。それを指摘したい。 まず、他の人がどうアプローチしているかを調べた。と以下のブログが出てきた。 「成長とは何か」を自分の言葉で定義せよ この記事で書かれているような方法でアプローチしているのがだいたいだろう。まず批判を述べ、次に自分の見解を述べようと思う。 この記事では以下のようにアプローチしている。

私は研修で「成長するとは何か?を自分の言葉で定義せよ」という演習を行っている。具体的には、各自にこれまでの仕事のなかで「いちばん成長できた経験」をあげてもらい、グループで共有する。そして、そうした自他のさまざまな経験エピソードを踏まえたうえで、「成長すること」の本質は何かを抽出し言語化する作業を行う。

つまり、自分が成長できた経験を共有し、それらの共通項を本質と考え、それを成長だとするアプローチを行っている。


しかし、こんなやり方で成長というものの本質が見えるわけがない。このアプローチは、まず、本質という単語を使うこと自体が間違いである。 本質とは一体なんなのか。成長という単語が示しているものが成長の本質ではないか。もちろん成長という単語自体ではない。筆者のアプローチは成長をした経験から成長の本質へアプローチしている。 共通項を本質として扱うことの是非は別に議論されるべきだが、その点を無視しても、この方法では正しい結論を導き出せない。なぜなら、成長をした経験は、成長の本質ではないからだ。成長をした経験の共通項は、成長をした経験の本質である。成長の本質ではない。つまり彼らが行っているのは、成長とは何か?という疑問を、成長をする経験とは何か?という問題定義にすり替えている。自分は本質という単語が大嫌いだがまた使わせてもらえば、問題の本質をそもそもつかめていない。 私達は、もともとの問題の難易度に向かい合った上で答えを出さなくてはいけない。勝手に問題をすり替えて難易度を下げていいわけがない。つまり、筆者と研修に参加した人達は問題を間違った方法でとらえ、間違った答えを出しただけである。


同じ理由で、自分の経験で具体的に何がどうなったかなどという方法で成長というものを定義することはできない。成長の経験における共通項は、成長の本質ではない。 私達が求めているのは成長というものの本質だ。それはなんだろうか。成長をXとした場合の本質Yは以下の条件を満たさなくてはいけない。 X≡Y (意味が分かる人用) 一方で、一般的な答え、例えば以下の様なものは、この条件を満たせていない。

・成長とは、限界の幅が広がること

これらは、 [成長→限界]であり、[成長≡限界]ではない。[成長≡限界]は[(成長→限界)&(限界→成長)]である。 記号論理を使わずに言えば以下になる。 成長は限界の幅が広がることに対する十分条件である。 つまり、 限界の幅が広がるのは、成長じゃない要因でも起こりえる。 よって限界の幅が広がることは成長の本質ではない。成長していない時でも自分の限界が広がることがあるからだ。(例えば、飛行機のチケットを買えば成長か?車を買えば成長か?自分の移動限界が広がっているのが自分は成長していないはずだ。) 成長の本質Yは、成長がYの十分条件かつ必要条件であり、Yが成長の十分条件かつ必要条件でなくてはならない。でなければ成長の意味が変わってしまう。


ちょっと長くなってきたので自分の見解は別記事にする。ヾ(☆OωO+)ノ ロストした人は次の記事の冒頭でこの記事の主な批判を簡単にまとめてるからそれを参考にして。 成長とはなにか 私のアプローチ